『自然の住人に手を出すなッ!』 鋭い声と共に、ずしんと腹の底に響く音をさせ、巨大な熊がホロホロの目の前に姿を現した。 思わず身構えて見上げると、その肩に一人の少年が乗っている。 そしてその足元に――― 「!?」 見知った顔を見つけ、ホロホロは仰天した。 ――――――少年の名はアレン。 この地を守る、シャーマンだという。 「うおー! いい所だなあ、こりゃ」 目の前に広がる湖に、ホロホロが歓声をあげた。 その畔では森を住処としている動物達が、静かに水を飲んでいる。 空の青さを鮮明に写した湖面は、まるで一枚の大きな鏡のようだった。 「ここは聖域だ」 「聖域?」 アレンの言葉に、ホロホロは首を傾げる。 「人が触れてはならない、自然の場所だ。―――俺はこの地を守り、この地の声を伝えるシャーマンだ」 (すごい…) 二人の会話を聞きながら、はただ感嘆の思いを込め、その光景を見つめた。 確かに聖域という言葉がぴったりだと思った。 清浄な空気。 涼やかな水のせせらぎ。 この地の守人たる彼が、その使命を全うしている結果なのだろう。 ――――なのに、 (……なんで、淋しいんだろう) それは厳密に言えば、の感情ではない。が淋しいのではない。だってその理由がない。 なのに何故か―――淋しいと、感じてしまう。 否。 これは、 この気持ちはきっと、 (この森の、気持ち…?) この美しく壮大な景色は、斯くあるべしと念う少年の手によるもので、何も悪い部分などないはずなのに。 そう、ここは確かに聖域なのだ。 正しい自然。 他では失われつつある自然。 まるで小さな理想郷だ。澄んだ水を飲みにやってくる、動物達の姿を見て思う。 でも。 淋しいと。 森が、この地が、感じているのだ。 そしてそれがの中に流れ込んでくる。 「………?」 は首を捻った。 その理由を考えようとすると、何故か先ほど、巨木の元でうつらうつらと見ていた白昼夢のことが思い浮かんだ。 何か関係があるのだろうか。 そういえば―――あのアレンのような少年が、夢の中に出てきた、ような。 あまり覚えていないのが惜しかった。 他の二人は感じていないらしい。 の視線の先で、水を飲みに集まる動物を指差していたホロホロが、何やらアレンに怒られていた。 ――――――“ ” 「……?」 不意に、ぴくりとは顔を上げた。 何だろう。 何か、よくわからないけれど、確かに、 ―――――よばれた、気がした。 それは音ではなく、声でもなく、空気を震わせ鼓膜を震わせ認知するものではなく、それなのにどうしてか抗いがたいような、強烈に引き寄せられるような、そうあえて言うならそれは懐かしさにも似た、 の脳裏に、あの時のことが甦る。 日本で、まだ一次予選も終わっていない頃の。 蓮と一緒に、商店街へ行った時のこと。 そして―――シルバの元へ、辿り着いたこと。 ……カミサマ? 「妙な娘だ」 「あん? …ああ、のことか?」 町へと続く道へ向かっている途中。 ホロホロの言葉に、アレンは小さく頷いた。 「んー、まあ……なんつーか最近元気ねえからなあ、あいつ」 「……そういうことじゃない」 確かに若干人見知りをしそうな少女だった。口数も多い方ではなさそうだ。 だが―――違う。 自分が言いたいのは、そういうことではないのだ。 いつものように森の中を歩いていた。 神聖なこの地を踏み荒らしていく輩がいないかどうか、見回っていた。最近では業者の他にも、個人の趣味で動物を狩ろうとする者も、少なからずいた。 昼ごろまでは特に何もなかった。静かな時間。ただ平和に流れていく時間。 だが昼を過ぎた頃、不意に森がざわめき出した。 朝から漂っていた微かな喜びの空気が、一際膨らんだのをアレンは感じた。 「―――つーかアレン、お前あいつに何かしたろ」 「は?」 唐突にぶつけられた質問に、アレンは訝しげに眉を寄せる。 その視線の先では、ホロホロが半眼でじとりと此方を見つめていた。 「何のことだ。俺は別に」 「いーや! ぜってー何かした! …あいつ、怖がってたぞお前のこと」 「………」 確かに、彼女はほとんどアレンと目を合わそうとしなかった。 ずっとホロホロの背中に隠れるように寄り添い、アレンとホロホロが会話をしていてもそこに入ってこようとはしなかった。 現に今も、この場に、彼女はついて来ようとはしなかった。 ホロホロの誘いにも、 『…いい。ここに、いる』 と静かに、だけどはっきりと彼女は首を横に振った。 『いいのか?』 『うん。もうすこし、ここにいる』 そう、ホロホロに対して浮かべた控えめな笑みが、彼女の性格を物語っているようだった。 あまり人馴れしていない小動物みたいだと思った。そういう性分なのかと。 でも、 『何かしたろ』 ――――何か、とは (俺は何も、) 『お前―――にんげん、か?』 (――――いや) あれのせいか。 合点がいった。 印象が最悪だとすれば、確実にあの時だろう。 確かに彼女にとって自分はまるで寝込みを襲うように突然出現した男で。 しかもあれは愛想も何もない突きつけるような誰何ではあったし、そのあとはホロホロの起こした騒ぎのせいで咄嗟に同行させた。 確かに、あの時。 仕方がなかったこととはいえ。 無理やり腕を取ったのは、多少手荒だったとは思う。 その点だけは、そう思える。 だけど。 あの問いかけだけは。 『お前―――にんげん、か?』 そう問わせてしまうような何かが、眠っている少女にはあったのだ。 人に非ざる何かが。 (……勘違いか?) ホロホロと出会った後の、あの、こちらに怯えていた(らしい)少女の小さな姿は、わざわざ確認するまでもなく、どこをどう見ても人間だった。今思い返してもそう思う。 だけど だからと言って 思い違いと断定するにはやはり――――余りにも。 「おい、聞いてんのかアレン!」 そこでハッとアレンは我に返った。 いつの間にか思考に耽っていたようで、見ればあのもともと吊り目な三白眼が更に吊り上って此方を射ている。 そんな彼に、ふと尋ねてみた。 「なあホロホロ」 「なんだよ」 「…お前にとって―――あの娘は何だ。お前の眼には…どんな風に映る」 同じシャーマンである彼に。 何か意見が聞けるかもしれないと思ったから。 だが。 (…ん?) アレンの視線の先で―――何故か、本当に何故か―――ホロホロの頬にサッと朱がさした。 「…まさかお前」 「わっ、ば…馬鹿やろ、そーゆんじゃねえよ!」 「………」 どうやら訊き方を間違えたらしい。 明らかにわたわたと狼狽するホロホロを尻目に、アレンは内心息をついた。 だがそんなアレンの様子を気にも留めず、尚もホロホロはぶつぶつと若干釈明染みた口調で呟く。 「…まあ、ちっとばかし人より寂しがりなとこもあるけどよ。なんつーか、その、…ほっとけないというか」 「じゃあお前が傍にいてやればいいだろ。ホロホロ」 大人しく聞いてやる気にもなれず、アレンは半ば投げやりに相槌を打った。 本気で懸想しているのか。あの娘に。 ならばやはり―――自分の勘違い、なのか。 「……違ェよ」 だが次の瞬間、ふっと低くなった彼の声音に―――アレンは思わず動きを止めた。 「そういうんじゃない。誰でもいい訳じゃ、ねえんだ」 どこか拗ねたような、口ぶりで。 ぽつりとホロホロは言った。 □■□ ――― ――― (…どこ…?) 呼ばれている。それは確かなことなのに。 その“声”がどこから聞こえてくるのかわからない。 (どこにいるの…? カミサマ) はきょろきょろと辺りを見回す。 ここは聖域。カミサマに近い場所。 だからだろうか。 その“声”も、上手くは言えないのだが、そう、何だか―――反響、しているように感じるのだ。 だからどこからも聞こえないようで、どこからも聞こえてくる。 そんな気がした。 梢が鳴る。 風で飛んできた一枚の葉が、の目の前をふわりと横切った。 それはの視線の先で、あの湖へと舞い降りて―――― そこで、ようやく気付く。 周囲から動物たちの姿が、忽然と消えていることに。 先ほどまで水を飲んでいた筈の動物ですら、気配もない。 ―――もしかして。 「………」 はそろそろと湖へ近付いた。 本来なら、この聖域の番人であるアレンの了承なくしては、近付いてはいけない場所なのだろう。 だが今は。 ――――“ ” どくん 鼓動が、聞こえる。 わたしの音。 わたしの、しんぞうの、おと。 そうっと湖面を覗き込むと、風に凪がれてそこは静かに波打っていた。 ああ、知っている。 この感覚。 懐かしい。 ―――“ あいたい ” ―――“ あいたい ” ―――“ はやく ” 「わっ…わたしも…早く、会いたいよ…!」 次第に強くなる“声”に、思わずも口に出して答えていた。 パッチ村へ行けば、会える。 あなたに。 カミサマに。 その瞬間。 このアメリカへ来るもっと前、ラゴウが流れるよりも、もっともっと以前の―――まだ、カミサマと共に在った時間。 その時間が…不意に懐かしくなった。 まだ何も知らずにいた頃。 何も知らずに―――誰のことも。 大切な仲間も。 誰かを好きだという気持ちも。 …あのひとのことも。 何も知らないでいられた時間。 何も知らなくても、良かった時間。 さびしいことも。 かなしいことも。 くるしいことも。 何もかも。 それは、鮮烈なまでの懐古感を伴った―――帰心。 か え り た い 無性にそう、思った。 すべてを投げ出して―――あの頃に戻れたなら、と。 『 なら、はやく、かえっておいで 』 (――――え…?) それは、突然だった。 今までどこかぼやけていて、揺らぎ、広がり、遠く近く反響しあっていた“声”が――― ひとつになった。 はっきりと。 まるであたかもそれが元の姿だったかのように。 (………わ、た、し…?) は呆然とソレを凝視した。 目の前で、空気が圧縮するようにじわりと滲み出てきたのは―――確かに、寸分違わぬ己の姿だった。 顔も髪も体つきも、身長までも。 まったく同じ、もう一人の自分。 だけど、違う。 その眸が違う。 ゆらり 自分と同じ、だけど違う瞳が此方を見下ろしていた。 『 はやく、還っておいで 』 『 私のもとへ 』 『 ひとつになるために 』 『 より完全なものになるために 』 (ひとつに……?) どくん また心臓が鳴った。 だけどさっきと違うのは―――どこか、落ち着かないところ。 なんだろう。 何故か――――不安に、なる。 目の前のこれは誰? カミサマじゃない。絶対違う。 ならば、これは、誰? 徐々に鼓動が早くなっていく。 息苦しくなっていく。 『………』 ソレは無言ですっと手を伸ばした。 思わずは身構える。 だがその指先は、の遥か後方を静かに指差していた。 (……?) 何だろう。 そう思って振り返った瞬間。 ――――――巨大な爆発音と共に、視界が一瞬真っ白になった。 「きゃ…!」 その地響きたるや相当なもので、思わずは尻餅をついてしまった。 空を仰ぐと、遠くの方からもうもうと黒い煙があがっている。 何かあったのだろうか。 の脳裏を、ホロホロとアレンの姿が過ぎった。 「……い、ない…」 そうして再び湖の方へ向いてみれば、そこは以前と変わりない、元の湖畔に戻っていて。 当然ながらあの、もう一人の自分の姿もなかった。 まるで、夢から醒めたかのような。 (誰だったんだろう、あれ…) はぎゅっと胸の前で手を握りしめた。 まだ心が落ち着かない。ざわざわする。 ―――でも。 「今はとりあえず…あっちに行ってみよう」 無理矢理振り切り、黒煙のあがる方へとは駆け出した。 パチパチと炎の爆ぜる音がする。 その毒々しい赤は、まだ若い木々から水分を奪い取り、瞬く間に舐め尽くしていく。 辺りに充満する、焦げ臭い匂い。 森が、木が、草が――――生きる物が焼けていく匂い。森が、大地全体が悲鳴を上げている。 「…う、…けほっ」 は咳き込んだ。 のどが痛い。目も痛い。 これは、一体何があったというのだろう。 この森に―――何が。 「ほ、ろほろっ……ホロホロ…!」 もしかしたら近くにいるかもと思い、名前を呼んでみるが、返答はない。 そう言えば、アレンは森を伐採しにくる業者が最近増えたと言っていた。 ―――何か関係が? 立ち尽くしていると、前方に誰かが倒れているのが見えた。 「…っ!」 知らずに息が詰まった。 嫌な感覚が全身を駆け巡る。 だがそのままそうしているわけにもいかない。意を決して、は恐る恐る近付いた。 ―――だが、予想とは違った。 (この人……?) 作業着を着た、知らない人間だった。大人の男。 地面に投げ出されたように倒れているその体は、あちこちが焼け焦げて傷だらけだったが、息はあるようだ。 「あ、あの…だいじょうぶ、ですか…!?」 呼びかける。だが反応はない。 ――――その時、再び爆音がした。今度は先ほどよりも近い。頬がちりっと疼いた。 は爆音のした方へ目を凝らし―――そこに爆発の原因を見た。 それは炎に包まれ、明々と燃え盛っていたが――――大きなダンプカーのようだった。 窓ガラスや部品は粉々になり、あちこちに飛び散っている。 「あれが…」 この爆発と、森を燃やす炎の原因なのか。 は再び目の前の男に目を移した。 作業着。 まさか、 (業者の人…?) 「…っ、わ!」 その時、とうとう耐え切れなくなったのか、すぐそこでミシミシと盛大な音を立てて木が倒れた。 倒れた拍子にパッと火の粉が舞い、目の前が更に赤く染まった。 思わず男の上に覆いかぶさる。 炎に炙られながら、木々たちが叫んでいる。 ―――逃げて ―――逃げて わかっている。 ここは、危ない。 どこかへ避難しないといけない。 でも…どこへ? 一人で、気絶した成人男性など運べる訳がない。 かと言って、置いていくなど論外だった。 森が叫ぶ。 ―――止めて ―――止めて 「っ…ごめんね、熱いよね…! でも、どうしたら」 火を止められるんだろう。 泣きたい気持ちでいっぱいになりながら、は森に語りかける。 だが、 ―――ちがう 「え?」 止めてもらいたいのは炎じゃない そう、彼らは言っていた。 ―――止めて ―――止めて 「な、何をとめて欲しいの…っ?」 そこに感じる想い達に、必死に呼びかける。 彼らが何を望んでいるのか。 何を願っているのか。 それを、手繰り寄せようとする。 ―――とめて ―――あのひとを 「あの人……?」 途端に、また胸に淋しさが湧いてきた。 この地を訪れてから、ずっと感じたこと。 この森がずっと抱えてきた心。 (どういうこと…?) 「――――――ッ!!」 そこへ、森一杯に声が響き渡った。 振り返ってその姿を確認して――― 安堵の余り、力が抜けそうになった。 「ホロホロッ…」 先ほどとはまた違う意味で泣きそうになる。 スノボにオーバーソウルしたホロホロが、氷で炎を牽制しながら、のもとへ滑り込んできた。 「大丈夫だったか!?」 「うん、うん、わたしは何ともない…でも」 「? こいつ、もしかして」 の腕元を覗き込み、ホロホロの顔が険しくなる。 それを見ては確信した。やはりこれは―――アレンやホロホロ達も関係していることなのだと。 「まだ息があるの。はやく場所をうつさないと」 「ああ…こいつはまじーな」 言いながら、応急処置として、ホロホロが作った氷で男の傷口を冷やしてやる。 だが、本当にそれは応急処置でしかない。 本格的な治療をしないと、命に関わるかもしれない。 それに、達だってここでのんびりしている訳にはいかないのだ。 「ホロホロ。アレンは?」 「…あいつは」 一体何があったのか。 その名を耳にした途端、ホロホロの顔が一層険しくなって――― 「………ホロホロ。そいつを渡せ」 ぴり その場の空気が、確かに凍りついた。 低く唸るような声音と、異常なまでの巫力の高まり。 は、緊張で指先が痛くなる感覚を初めて覚えた。 「あ、アレン…」 オーバーソウルのドッドに乗ったアレンが、ちらりとを見下ろす。 ぞっとした。 冷たい目。 「そいつを渡せ」 「そ、そいつって……この男のひとのこと…?」 「そうだ。この地の―――俺たちの敵だ!」 言うや否や、地響きをさせてドッドが襲いかかってきた。 「やめろアレン!」 「っ…」 思わず目を瞑っただったが―――恐る恐る目を開くと、ホロホロがスノボでそれを受け止めていた。 ぎりぎりと力の応酬が始まる。 「っくそ…邪魔をするなホロホロ!」 「駄目だ! そんなことより今は、この火事を」 「そいつの…全部そいつらのせいだろう! 聖域にずかずか入り込んできて! 荒らして! ここにどんな生き物がいるのか、どんな生活をしているのか、それすらも知ろうともしないくせに!」 は動けなかった。 ただアレンの激昂に、そこに潜む憎しみにも似た憤怒に―――身体が石のように固まってしまって。 息をすることすら、容易には叶わぬほど。 ――――あ、 その瞬間、ようやくは気付いた。理解した。 木々たちが、何を止めて貰いたがっていたのか。 の中で―――ひとつに繋がった。 「どけホロホロ! そいつの息の根、止めてやる!」 「だめっ!」 「…?」 思わぬ所からの声に、ホロホロの目が丸くなった。 は、ぎゅっと唇を噛み、頭上のアレンを見上げる。 身体が震える。声が震える。 怖い。怖いけどでも―――言わなくちゃ。 「そんなことしたら、もっともっと、遠くなっちゃう。もっともっと、さみしくなっちゃう。―――森がね、言ってるの。アレンがとても遠くて、ずっと淋しかったんだって!」 「……!」 息を呑むアレン。 は一度息を吐き出すと、再び大きく息を吸った。 「アレンが守ってくれる、それは凄く嬉しいことだったけど―――そのせいで、アレンは皆と距離を置いちゃったって」 傷つけないために。 壊さないために。 ―――守るために。 「それが、ずっと、ずっと森にとっては淋しかったんだって。本当は昔みたいにもっと直接触れ合いたいのに、アレンと心が通じ合えなくなっちゃった…」 「ばっ…馬鹿を言うな! お前なんかに何が」 「わかるもん!」 一際声を大きく張り上げたに、ぐっとアレンが鼻白んだ。 はもう、目を逸らさなかった。 「わかるもん。わかるんだもん! ―――ここに来てからずっと、みんな泣いてたもん。わたしのこと励まそうとしながら…それで淋しい淋しいってずっと言ってた! さっきだって……燃えながら、熱いのに、アレンのこと止めてって言ったんだよ!」 「…な」 「ここで人を殺してしまったら…アレンはもっと遠い存在になっちゃうって」 本当は――― 本当は、とても優しい人なのだ。彼は。 そして心の強い人なのだ。 今ならわかる。あの、優しい木が見せてくれた、暖かな夢。 優しいからこそ木々たちを守ろうと必死になって 心が強いからこそ傷つけぬために己を律し距離を置いて ―――でも、 「少しぐらい傷ついたっていい。傷つけられたっていい。それでも、傍に居て欲しいんだよ! だから―――これ以上遠ざからないでって!」 最後の方は、ほとんど叫びに近かった。 否、それは確かに叫びだった。 この地の。この森の。ここに息づく、いのち達の。 その彼らが言ったのだ。 アレンを止めてくれと。 だから、 「殺しちゃだめ」 は、男を守るようにぎゅっと腕に力を込めた。 絶対に殺させない。 その意志を、アレンに伝えるために。 「………」 アレンは言葉を失っている。 ホロホロも、動けないでいる。 は、必死に目を逸らさず、アレンをまっすぐ見つめている。 ―――そして。 「うお!」 「…、きゃあ!」 またしても、一本の焼け焦げた木がゆっくりと傾いた。 それはミシミシと大きな音をさせ―――ほんの数メートル先にどぉん、と地鳴りをさせて倒れた。 ホロホロが咄嗟に庇ってくれたおかげで、大事には至らなかったが。 「大丈夫か、」 「うん…ホロホロは…!?」 「大丈夫だって」 笑いかけてくれるその顔に、はほっと息をついた。 だがすぐに顔を引き締める。 ――――いよいよここも、危ない。 「とりあえず安全なところに行こうぜ。…アレン! ボケッとすんな、死にたくなきゃ行くぞ!」 「あ…、ああ」 ホロホロの一喝に、ようやくアレンも我に返る。 そうして一同は炎を潜り抜け、風上へ向かった。 □■□ 風が吹いた。 真っ黒な灰が一掬い、宙に舞った。 ――――火は止まった。 だけどそれは、盛大な犠牲を払った末のものだった。 燃え盛る森を、その大地ごとホロホロが、オーバーソウルで根こそぎ薙ぎ払ったのだ。 自然と共存を目指すシャーマンである筈の彼が。 ―――彼、だからこそ。 「ん、しょっ…」 手にあった苗を全て植え終えたが、勢いをつけて立ち上がった。 見渡す限りの焼けた大地。だけどそこは今、食料を得て元気になった葉達によって綺麗に耕され、少しずつ苗木が植えられていた。 その食料は、自然からの恵み。 受けた恵みは、返さねばならない。 それが、自然と手を取り合い、共に生きること。 「自然から恵みを受け、人もまた自然へ返す。―――こういう関係はダメか? アレン」 「………」 大地を慣らし、土を耕して、苗を植えていく葉達の姿を見ながら。 語りかけるホロホロの言葉に、アレンはじっと下を向いていた。 あの後――― 炎を食い止めるために、ホロホロは自分の手で自然を破壊した。 傷ついた業者の男は、離れた所にいた他の仲間達のところへ送り届けて。 ―――アレンは、殺さなかった。 「…アレン」 がそっと近づく。 たとえ森が炎に包まれていても―――それでも、自分の手で彼らを殺すことは出来ないと、そうアレンは言っていたから。 簡単には割り切れない。それが心というもの。たとえそれが正論だったとしても。 けれど、それはホロホロにおいても同じだった。 傷つけたくない。守りたい。 人も、自然も。 共に生きていきたい。だからこそ、今のままではいけないこともわかっている。ならば…どうしたらいい? ―――答えは、簡単には、出ない。 「だけど人間も、自然の一部だ。だから―――その輪の一部として生きていける筈なんだ」 ホロホロはきっぱりと言った。 答えが出ないのならば、出るまで。 そうやって、生きていくしかないのだと。 清々しい風が吹く。 「…ホロホロ。」 「あん?」 「?」 「……すまなかった。――― 」 アレンの言葉に、二人は顔を見合わせた。 とても小さくて、まるでそよ風みたいな声だったけれど。 それでも…ちゃんと、届いたから。 ―――“ありがとう” だからホロホロもも、顔を見合わせて、笑った。 「―――」 帰り際。 アレンが声をかけてきた。 「?」 「これ、やる」 ずい、と差し出された手には―――小瓶が一つ。 何やらわからず、しばしその小瓶とアレンの顔とを見比べていると、 「っ、いいから早く受け取れ」 「わ…」 半ば強引に押し付けられてしまった。 恐る恐るその瓶をかざし、中をのぞいてみると、粉のようなものが少量入っていた。 「エキナセアの根をすり潰した物だ。…火傷に効く」 そう言うと、ぷいと明後日の方を向いてしまう。 「あ、ありがとう」 「……怖がらせて悪かったな。さっきと――最初の時も」 「ううん…。これを渡しに来てくれたの?」 「それも、ある。…あと」 アレンは言った。 少しだけ―――森の気持ちが、わかるようになったのだと。昔と同じように。 思わずの顔がほころんだ。 「そっか。…よかったね」 「ああ。それでな」 森が、伝えてくれと。 アレンに言づけたらしい。 「いっしょ、だと言っていた」 「…?」 「俺の、傷つけたくないから、守りたいから離れていたっていう気持ちと―――」 「―――おまえが大切に想っている奴の、気持ちが」 「…え……?」 は目を丸くする。 それは――― それは、どういうこと? 想っている人―――そんなの明確だ。 でも、ということは、つまり、 アレンと―――蓮、が 同じ? なにが? ――――きもち、が? 「どういうこと…?」 「そこまでは知らん」 それはそうだろう。 ひとまずは、そのまま言葉を飲み込んだ。 木々たちに尋ねても無駄だろう。アレンに対してそうとしか言わなかったということは、自分が訊いても同じような答えしか返してくれないだろう。 真意は―――自分で考えていくしかない。 「ファイトが終わったらまた、来い」 「いいの?」 「お前がいると、森が喜ぶ」 「―――うん」 そうして どちらからともなく、手を振って。 「また、ね」 「ああ」 一歩、歩き出す。 それぞれの道に向かって。 「――――何話してたんだ? 」 小走りで追いついてきたに、ホロホロが尋ねた。 「…これ、もらったの。火傷にいいんだって。いっしょに使おう」 おースゲー民間療法か、とホロホロが興味津々にの手の中を覗き込む。 「…ね、ホロホロ」 「ん?」 「きょうは、ありがとう」 外へ連れ出してくれたこと。 気遣ってくれたこと。 助けてくれたこと。 今日あった全てのことへの感謝をこめ―――は言った。 すると、彼は、照れ臭そうに笑った。 『いっしょ、だと言っていた』 『俺の、傷つけたくないから、守りたいから離れていたっていう気持ちと―――』 『おまえが大切に想っている奴の、気持ちが』 (どういうことか、わからない。けど) ――――考えなくちゃいけない。 わからないままではいけない。 そんな気が、した。 |